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福岡地方裁判所 昭和42年(わ)688号 判決

被告人 宮崎廉

大一二・七・八生 会社員

主文

被告人は無罪。

理由

第一公訴事実

被告人は、福岡県鞍手郡宮田町大字上大隈所在の第二大之浦炭鉱を経営する第二大之浦炭鉱株式会社の第一採炭課長として同鉱本線斜区の採炭等の業務を指揮監督するとともに坑内保安係員として右業務に伴う保安に関する事項をも担当していたものであるところ、昭和四〇年七月二二日午前三時ころ、同鉱本線斜区右三片人道ポケット坑道(右三片坑道((下方))と右四片上連坑道((上方))とを結ぶ傾斜約五〇度、長さ約二七メートルの連絡坑道)上部において自然発火し、その消火作業の現場指揮に当り、その対策として右ポケット坑道への入気側に当る水平坑道の右三片ポンプ座側および水抜坑道にそれぞれビニール囲を設けて通気を強め、かつ右各ビニール囲のややポケット坑道寄り、および水平坑道の右三片曲片側に充てん囲(但し右三片曲片側は腰までの高さ、他は坑道全体)を設け、燃焼部分に注水あるいは放水した際生ずる崩落ぼたや坑木類によつて同坑道を閉塞して消火しようとしたが、右囲を設けたことにより、水平坑道ポンプ座側および水抜坑道側からの通気速度が落ち、放水などにより発生した一酸化炭素および水平坑道に埋積した崩落ぼたなどから発生した一酸化炭素が通気の状況によつては右三片ポンプ座に逆流してくる危険があつたから、上村市郎(大正四年二月一〇日生)ら四名に右四片ポンプ座での充てん囲の補強を命ずるに際しては、通気の状態に留意し、前記ビニール囲付近の坑道を密閉して一酸化炭素の右作業場への侵入を阻止するか、局部扇風機を用いて一酸化炭素を排気側に流すかあるいは酸素呼吸器を着用している救護隊に危険な右補強作業を担当させる等して事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、前記ポンプ座に一酸化炭素が侵入することはないものと軽信して坑道を密閉せず、また局部扇風機を用いず、かつ酸素呼吸器を着用していない右上村ら四名をして、右ポンプ座での充てん囲の補強作業に従事させた過失により、同日午後二時一〇分ころ右ポンプ座において、右火災により発生し右ポンプ座付近に侵入した濃厚な一酸化炭素により、右作業に従事中の右上村と大岡虎雄(大正三年二月一一日生)および松野長太郎(大正四年五月八日生)の三名をいずれも中毒死せしめ、同じく右作業に従事中の重野義人(大正一二年一二月一日生)および猪俣忠三(明治四三年三月一日生)の二名をしていずれも加療約三週間を要した中毒症に罹患するに至らせたものである。

第二当裁判所の判断

一  昭和四〇年七月二二日午前三時ころ、福岡県鞍手郡宮田町大字上大隈五七三番地所在の第二大之浦炭鉱株式会社の第二大之浦炭鉱斜区右三片人道ポケット坑道(以下単に人道ポケット坑道という)上部の門扉(通気量調整のための木製の扉)付近において、炭層が自然発火し、被告人が上司の了解、指示のもとに、消化作業の現場指揮に当り、消火方法として、水平坑道の右三片ポンプ座側および水抜坑道にビニール囲を設けて通気を押え、さらに右両所と水平坑道の右三片曲片側に充てん囲いを設け、放水した際生ずる崩落ぼたや坑木などによつて人道ポケット坑道を閉塞する方法をとり、同日午後二時ころ、上村市郎らに充てん囲いの補強をするよう指示したところ、ポンプ座付近に侵入した一酸化炭素により、同所付近で充てん囲いの補強作業に従事していた右上村市郎外四名の者が、公訴事実記載のように死傷したことは証拠上明らかなところである。

二  弁護人および被告人は、入気側であるポンプ座付近に一酸化炭素が侵入したことについて、予見可能性がなく、本件死傷について被告人に過失はなかつたと争うので以下この点について検討する。

(一)  (証拠略)を総合すれば、次の事実が認められる。本件事故発生当時、第二大之浦炭鉱株式会社における職制および保安管理の機構は別紙一(保安管理機構)の、同炭礦斜区の坑道の位置関係は別紙二(斜区平面図)の、人道ポケット坑道とポンプ座およびその付近の坑道などの位置状況は別紙三(現場付近見取図)および別紙四(災害見取図)のとおりであり、人道ポケット坑道は長さ約二七メートル、傾斜約五〇度、梁(天井)約一・八二メートル(六尺)、脚(両側)約二・一二メートル(七尺)の木枠が入つていて、中央に中柱があり、上に向つて中柱の右側はポケットで下方一〇メートルぐらいはぼたがたまつており、左側は人道で梯子と手すりが設けてあつた。

発火当時勤務についていた右四片中三尺払の担当係員木村光造が、当日午前三時二〇分ころ、人道・ポケット坑道上部の自然発火を発見し、直ちに斜区担当の第一採炭課長で、かつ坑内保安係員であつた被告人、保安課長代理の市丸好美、被告人の下で斜区担当の区長上村市郎に電話で連絡し、そのあと出会つた仕繰係員の室屋敏夫ら六名と共に右四片上連から現場に行つて見たところ、人道ポケット坑道と右四片上連の連絡坑道は一面火の海となつており、門扉の有無もわからなくなつていたので、近くの注入用ポンプで放水して消火につとめたが、火勢がおとろえないので、右木村と室屋が相談して、排気用の主扇風機を停止し通風量を減らして火勢を静めることにして、田坂生産部長に電話連絡し、同日午前三時四三分主扇風機の運転が停止された。そのため通気量が不足して、まもなく煙が逆流するようになつたので、同日午前五時四五分から主扇風機の断続運転に入つたが、なお煙の逆流があつて、前記ポンプ座付近に煙が滞留するようになつたので、同日午前九時以降は連続運転に復した。その間に入坑した被告人や、田坂生産部長らが協議して、発火場所への通気をできるだけ遮断するため、入気側にビニール囲い(木枠にビニール幕を張つて坑道を塞ぐもの)をし、さらに撒水管から人道ポケット坑道に注水して、その際生ずる崩落ぼたや坑木類などで同坑道を閉塞して消化すべく、崩落ボタなどを受け止めるため、水平坑道付近にバラ囲い(または充てん囲い、わらなどを荒目に編んだむしろ様のものを木枠に張つたもの)をした。その位置は別紙三(現場付近見取図)記載のとおりであるが、右三片曲片方向のバラ囲いは、作業員の出入りのため、腰囲い(腰の高さの囲い)であつたが、他はいずれも坑道の下から天井まで全部を塞ぐものであつた。その作業が終つたのが午前八時ころであつたが、右囲い作業の間、安全のために元栓をしめて注水を中止したのを、作業が終つたので注水を再開することになり、田坂生産部長が元栓をあけるよう指示したが、なぜか人道ポケット坑道に水は流れて来なかつた。

そこで、撒水管からの注水の代りに、排気卸と右四片上連の分岐点付近まで配管されていた充てん管を利用して注水することにし、排気卸側に土のうを築いて、水をせき止め、同所の船底に水をためて水位を上昇させ、人道ポケツト坑道への連絡口から水を流下させるために、同日午前九時ころ、田坂生産部長から被告人に土のうを築くよう指示があり、その作業がなされ、同日午前一一時三〇分ころ、作業が終り、同一一時五八分ころから注水が開始された。その間、燃焼部の風量をへらすため、二目抜の風門を開けて入気と排気を短縮させて入気の分流を試みたが、また煙の逆流があつたのですぐ風門を閉じた。一方人道ポケツト坑道は、前記のように注水に手間取つている間に、火は入気側である坑道の下方に延び、同日午前一〇時すぎころ、同坑道内昇り口に設けたビニール囲いおよびバラ囲いが焼けてしまい、同日午後一時すぎころには、人道ポケツト坑道の昇り口の木枠などに燃え移りそうになり、そうなれば坑道の天盤が崩落するので、それを防ぐため、仕繰員の加々良歳雄らが右三片曲片から消防ホースを引いて注水することにし、同日午後一時三〇分すぎころから注水が開始されたが、ホースが古く水圧のため再三破れ、その修理に手間取り、結局注水は中止された。午後二時ころ、田坂生産部長から被告人に対し、「充てん水を大分流しているので、そろそろ人道ポケツトの方に流れ込んでくるからポンプ座の囲いを補強するよう」に電話指示があり、被告人は上村区長に「しばらく模様を見て補強してくれ」と指示をし、さらに、松野長太郎、猪俣忠三の両名にも上村区長に従うよう命じ、大岡虎雄、重野義人、谷口勝も上村区長に従つて、ポンプ座から水平坑道への梯子の下に行つた。松野、重野、上村、大岡の順に梯子にのぼり、梯子の下に谷口、猪俣がいて、松野が囲いを作り、他の者がバラなどの材料を手送りしていたが、右作業の開始時にはポンプ座付近には、煙はなく特に異状はなかつた。開始後二、三分たつて、谷口は本線斜卸の右三片分岐点付近に針金を取りに行つたが、その間に猪俣は吐気が来てせきをし、ついで頭の中につきささるような痛みを感じ、危いと思つてポンプ座入口の方に逃げ針金を取つて戻つて来た谷口は、ポンプ座の入口付近まで来たとき、ポンプ座の中が煙で見えなくなつており、ふらふらと出て来る猪俣に出会い、さらに二、三歩中へ入ろうとしたが、煙で目が痛くて進めず、ひき返すと猪俣が倒れていた。そのころ重野も急に腹がむかむかとし頭がボーツとなつたので、危険を直感し、梯子をとびおりて救命器を口にくわえて引き返し、倒れていた上村を助けようとしたが、気を失つてしまい、被告人は、右三片倦立付近からなにげなくポンプ座の方を見るとキヤツプランプが下に落ちたので行つてみたら、猪俣が倒れていたので、大声で人を呼び、さらにポンプ座の方に二メートルぐらい進んだが、頭がボーツとなつて倦立まで引き返して気を失い、またそのころ松野、大岡もポンプ座付近に倒れた。その時刻は同日午後二時一〇分ころであつた。

(二)  牧角三郎作成の鑑定書によれば、上村市郎の死体の血液から八〇%内外というほとんど飽和に近い一酸化炭素ヘモグロビンが検出されたこと、医師水野信英作成の死亡診断書三通によれば、死亡した三名はいずれも中毒後二時間半くらいで死亡していること、前掲受命裁判官の加々良歳雄に対する尋問調書によれば、水平坑道の右三片曲片側にいた同人が事故直前まで上村と話をかわしていること、前掲谷口勝および重野義人の各供述部分および各供述調書の記載によれば、事故直前重野らは、ポンプ座での作業に着手したころは、ポンプ座付近で煙を見ておらず、また頭痛、はき気など感じていなかつたことなどが認められ、これらのことから推認すると、本件被害者らは急激な中毒症状を呈していて、中毒した一酸化炭素は、ポンプ座付近に徐々にたまつていつたものではなく、一時にかなり多量の浸入があつたものと認められる。

そもそも坑内のような酸素の供給不足のところで石炭が燃焼するとき、相当な量の一酸化炭素が生じることは経験則上明らかであるが、さきに認定した事故発生の経過のとおり、発火後、主扇風機の運転停止、断続運転、常運転復帰後の目抜きの風門の操作などで一時煙の逆流が見られたけれども、目抜き風門を閉じて以後事故発生まで二時間以上主扇風機は連続運転をしていること、事故発生後ポンプ座付近に煙が相当量存在していたこと、本件事故当時、人道ポケツト坑道の燃焼以外に一酸化炭素の発生源と推定されるような所は、見当らないことから考えて、人道ポケツト坑道の燃焼部分で発生した一酸化炭素が、水平坑道からポンプ座の方に流下して来たと推認すべきである。

そして、前掲各証拠によれば、現場付近の通気の方向は、平常においては、本線斜卸を入つて来た入気が、一部は右三片曲片に分れ、水平坑道から人道ポケツト坑道を上り右四片上連に出るが、大部分はそのまま本線斜卸を下がつて、さらにその一部がポンプ座倦立からポンプ座、またはプラスバツクを通つて水平坑道に出て、右三片曲片から来た入気と合流して人道ポケツト坑道を上り、他の大部分は本線斜卸を下がつて右四片から払いを通つて右四片上連に出て、人道ポケット坑道を上つて来た通気と一緒になつて本線斜排気卸から坑外に排出される流れであること、本件事故発生時においても、通気量に変化があつたものの、通気の方向としては同じであつたものと認められる。とすれば、ポンプ座に浸入した一酸化炭素は、通気と反対の方向に流れたことになり、一見奇異の感がある。

しかしながら、鑑定人松隈喜総作成の鑑定書、証人松隈喜総の当公判廷における供述によれば、坑道において通気が一定速度以下の場合、煙の逆流があり、試験炭坑における実験の結果によれば、風速毎秒一メートルないし二メートル以下のときに逆流現象が見られたことが認められる。ところで、本件事故発生前後、水平坑道、ポンプ座、人道ポケツト坑道の通気速度がいくらであつたか、本件証拠中に測定値は見当らず明らかにすることができない。被告人の当公判廷における供述(第一四回)には、ポケツトの門を開放した場合、一分間の風量は六〇〇立方メートルくらいであつたと記憶する旨の供述があり、門扉が焼けおちたあとの通風状況はそれに近いと考えられるところ、前掲裁判所の証人荒牧光儀、同猪俣忠三に対する各尋問調書によれば、事故発生前ポンプ座付近では肌に感じるような通気はなかつた旨の記載があり、第五回公判調書中の証人内村豊の供述部分には、ポンプ座付近の坑道の状態から通気抵抗を考えると、人道ポケツト坑道を通る通気は、平常時において右三片曲片から大部分、ポンプ座からその残り、プラスバツクからさらにその残りが上つていたと思われる旨の記載、第六回公判調書中の証人江渕藤彦の供述部分に同旨の記載があること、前掲受命裁判官の証人加々良歳雄に対する尋問調書によれば、事故発生直前まで、右三片曲片側からは相当量の通気が人道ポケツト坑道に上つていたことが認められることから、平常時においてもポンプ座側の通気は、右三片曲片側の通気に比べて少なく、通気速度も小であつたと認められ、事故当時は、ポンプ座側はビニール囲いやバラ囲いもあつて通気抵抗は大きく、通気速度はかなり小であつたものと推認される。以上の事実関係に照らすと、人道ポケツト坑道で発生した一酸化炭素がなんらかの原因(後に検討する)で逆流したが、ポンプ座側は通気速度が逆流を許す程度であり、右三片曲片側は逆流を許さない程度であつたという状況は存在しえたと考えられるので、ポンプ座側に一酸化炭素が浸入し、右三片曲片側には一酸化炭素中毒事故が発生しなかつたことは合理的に説明できる。

そして、江渕藤彦作成の鑑定書および第六回公判調書中の証人江渕藤彦の供述部分によれば、同人は、午後一時半ごろからの充てん管による注水が開始され、人道ポケツト坑道の燃焼部において水性ガス反応によつて多量(毎分〇・二立方メートル以上)の一酸化炭素が発生し、これが注水による崩落ボタなどで閉塞状態にある人道ポケツト坑道の閉塞ボタの間隙を雲霧状の水蒸気に伴われて流下し、ポンプ座に浸入したとの見解をとるのに対し、前記証人内村豊の供述部分によれば、同人は、充てん管からの水が一気に入道ポケツト坑道に流れ込み、灼熱した石炭に当り急激に気化して大量の水蒸気が生じ(同証人はこれを水蒸気爆発と呼ぶ)、水性ガス反応や、不完全燃焼によつて生じた一酸化炭素を伴つて、気化によつて生じたエネルギーによつて、入気側である水平坑道に押し出されて、プラスバツクからポンプ座に浸入したが、そのころ人道ポケツト坑道は閉塞していなかつたとの見解をとる。証人松隈喜総は、前記供述部分によれば、人道ポケツト坑道は落ちぼたや坑木などでかなり閉塞されていたと推定している。前掲受命裁判官の証人加々良歳雄に対する尋問調書によれば、同人が人道ポケツト坑道下で消火作業をしていたとき、相当量の通気はあつたが、焼けボタや坑木が落ちて来てたまつていた。右三片曲片のバラ囲い付近から警戒する意味でポケツト下の方を見ていたが、ポンプ座の方から上村区長らがバラの補強をする音が聞えたので、あぶないから早く出た方がいいぞと声をかけた。それは通気が多量にあつたのでガスの危険は考えなかつたけれども、水が多く流れて来ていたので土砂の流れを心配した。上からの煙が下に来るとはとうてい考えられない旨供述しており、この供述を信用する限り、事故の前人道ポケツト坑道が、煙の逆流を許す限度まで通気速度が落ちるほど閉塞状態にあつたものか否か疑問がないわけではない。また先に認定したように、午後二時ころ、田坂生産部長から被告人に「充てん水を大部流しているのでそろそろポケツトに流れ込んで来るから……」と指示があつたことを考えれば、田坂部長の判断が正しかつたものとすると、事故直前充てん管からの注水が一気に人道ポケツト坑道に流れこんで来て、内村証人のいう水蒸気爆発があつたとの推論と符合する。しかし、前記加々良証人の供述部分によれば、同人が右三片曲片からポケツト下を見ていたとき、水がときどきぼたを押し流す程度流れて来ていた旨および前記上村区長に警告した時の「水が土砂を流す」のを心配したとの供述からみると、事故発生前かなりの水が、人道ポケツト坑道を流れ落ちていたものと認められるが、これを前提にすると、充てん管による注水が一気に人道ポケツト坑道に流れ込んで、水蒸気爆発を起したとする内村証人の推論に疑問の余地が全くないわけではない。いずれの見解が妥当であるのかにわかに決め難いところであるが、理論上はともにありうることと認められ、ただ具体的な本件事故当時の状況との関係で疑問の余地がないではないのにすぎず、結局、坑内火災の際通気の状況によつては、通気に逆らつて入気側に一酸化炭素を含む水蒸気や煙が逆流することがあるということ、本件事故の場合、そのような通気状態にあつたということを推認することができる。

(三)  そこで、以上認定の事実に基づいて、当時入気側に一酸化炭素が逆流してくることについての予見可能性の有無を検討する、

炭坑内火災では、酸素の供給が不足するため、炭素が不完全燃焼して、一酸化炭素が発生すること、高熱下で水蒸気と炭素が反応すると、一酸化炭素が発生すること(水性ガス反応)、また炭素の燃焼によつて生じた二酸化炭素(炭酸ガス)が炭素と反応して一酸化炭素を生ずることは化学上の基本的な知識であり、江渕鑑定をまつまでもなく、炭鉱の保安に当る者にとつては常識であつたと思われ、またそのことは被告人その他会社関係者の供述などからも明らかである。

しかし、証人松隈喜総は、同人は、昭和二八年から公害資源研究所に勤務しているが、昭和四五年ころ防火剤の実験をしているとき逆流現象に気付き、本件で鑑定依頼をうけて、昭和四七年三、四月ころ坑道実験を行つて、通気速度との関係で逆流のあることを確認したものの、それまで逆流現象を見聞したことはなかつたし、外国の文献にも一九五四年ドイツで開かれた国際会議で、イギリスの例が発表されたのがあつたが、一般には煙の逆流は常識的ではなかつたのではないかという気がする旨供述し、証人内村豊は、昭和九年満鉄の撫順炭鉱に入社し、主に保安関係を担当し終戦後は国鉄志免炭鉱にいて、技術の最高責任者として勤め、閉山後、本件事故のあつた第二大之浦炭鉱株式会社のいわゆる親会社になる貝島炭鉱の技術の最高責任者として六年間常務取締役を勤め、昭和四三年以降は、九州炭鉱連盟の副会長あるいは会長のかたわら、九州保安協議会の坑内火災委員などをしていて、炭鉱生活の面では九州での学識経験者のトップレベルにあると目されている者であるが、同人も三十数年間の炭鉱生活で、坑内火災で入気側に一酸化炭素の逆流があつたのは、昭和一三年撫順炭鉱で、似たような事故があつたのと本件の二回だけであり、それ以外はそのような事例を知らないし、九州保安協議会の中でも、そのような危険について保安教育をしていない旨供述し、同人の右経験も鉱業界全体の経験として保安対策に生かすまでには至らなかつたことが認められる。

さらに前掲各証拠および達国雄の昭和四〇年一二月二二日付司法警察員に対する供述調書によれば、被告人の職制上の上司であり、保安機構上の指揮監督者に当る第二大之浦炭鉱株式会社の社長で、保安統括者の達国雄、所長で保安技術管理者の西小森彦三郎、生産部長で保安技術管理者代理者の田坂英夫らも、本件以前に、入気側で消火作業をしたことがあるけれども、一酸化炭素中毒のあつた経験はなく、また他鉱での例を聞いたことがないこと、事故直前現場で作業していた加々良歳雄、谷口勝らにおいても、人道ポケツト坑道から一酸化炭素が逆流して来ることなど全く予見せず、かかる事態の発生に対してなんらの危惧の念をも持つていなかつたことが認められる。

被告人の当公判廷における供述、および被告人の昭和四〇年一二月七日付司法警察員に対する供述調書によれば、被告人は昭和一四年高等実業学校三年修了後貝島鉱業所の技術員養成所に入所し、昭和一七年同所を卒業して以来貝島大之浦鉱業所の第二坑の採炭係として勤務し、昭和三三年区長、昭和三八年一〇月企業合理化で貝島大之浦鉱業所より分離して第二大之浦炭鉱株式会社となつてからも引き続き区長を勤め、昭和三九年四月から第一採炭課長となつたが、昭和二五年八月坑内保安係員の資格を取得したことが認められる。被告人の右経験をもつてしても、入気側に一酸化炭素が逆流して来るということを予見できなかつたという被告人の弁解も、前記証人内村豊、同松隈喜総らの各供述に照らすとき、信用できるものと認めざるをえない。なるほど、検察官の指摘するように、主扇風機の運転停止時、若干の自然通気があつたのに、煙の逆流現象が見られたことは証拠上認められ、また、日常生活においてストーブで石炭を燃す場合など何らかの事由で煙突の引きが悪いとか、燃えている石炭に水をかけたときに灰かぐらになつたときなど入気側であるたき口に煙や水蒸気などが逆流することは我々のよく経験するところである。本件のような坑道における燃焼の際にも状況によつては逆流もありうるということを、炭鉱関係者のほとんどが予想できなかつたのは、先に述べたように坑内における逆流現象が極めて稀にしかなかつたことから、坑内では入気側に逆流はないという固定観念にとらわれていたためと考えられる。

そして、前記内村証言あるいは松隈証言によつて認められるように、本件の場合、ポンプ座側で作業するには、右三片曲片側を密閉して、ポンプ座側の通気を十分確保して作業するなり、あるいはポンプ座側で局所扇風機を利用して浸入する一酸化炭素を直ちに薄めるなどの方法をとることによつて、事故の発生を回避できたであろうと考えられる。従つて被告人を含めた第二大之浦炭鉱の主脳部が前記固定観念から解放されて、発想の転換をしたならば、逆流の可能性に気付きえたと考えられるので、被告人を含め会社側に本件事故について事後的に冷静に判断するならば、客観的な落度がなかつたとはいえないというべきであろう。しかしながら、先に認定したように、当時の鉱業界全体が、一酸化炭素の入気側への逆流ということに無関心であつたのであるからそのような逆流現象によつて、死傷事故がひき起こされるであろうことは、その当時としては、全く思いもかけないことで、具体的に予見できなかつたものといわざるをえないので、被告人に対し、本件の消火作業に際し、ポンプ座側に一酸化炭素の逆流することを予見しなかつたこと、および予見にしたがつて結果回避の措置に出なかつたことについて、責任を問うことはできないものといわざるをえず、結局、被告人に本件死傷事故発生について過失はなかつたというべきである。

三  してみると、結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条を適用して被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

別紙一(略)

別紙二(略)

別紙 三 現物附近見取図〈省略〉

別紙 四 災害見取図〈省略〉

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